2012年2月4日土曜日

文覚(もんがく)上人


絵、拾ってきました (^_^;)




---

『そもそもこの文覚と申す者は、渡辺党の遠藤左近将監茂遠
(えんどう・さこんのしょうげん・もちとお)の子で、遠藤武者盛遠といって、
上西門院(鳥羽天皇の第二皇女、統子)の所の衆である。

ところが、十九の年に道心を発し、髻(もとどり)を切って出家し、
修行に出ようとしたが、「修行とはいかほどの難事であろうか。試してみよう」
といって、六月の、風がなく草ひとつ揺るがない陽の照った日にある傍らの山里
の薮の中へ入り、裸になり、仰向けに臥す。

虻やら蚊やら、蜂・蟻などという毒虫どもが、体にひしっと取り付いて、刺し、
喰いなどしたけれど、ちっとも体を動かさなかった。七日までは起き上がらなかった。
八日めに起き上がって、「修行というのはこれほどの難事であろうか」と、人に問うと、
「それほどの荒行をしたら、どうして命がもつだろうか」と言う間、
「それでは容易いことだ」といって、修行に出た。

熊野に参って、那智籠りしようとしたが、「まず修行の小手調べに、名高い滝
にしばらく打たれてみよう」と言って、滝本へ参った。頃は十二月十日過ぎのこと
であるので、雪が降り積もり、氷が張りつめて、谷の小川は音もしない。
峰の嵐が吹き凍り、滝の白糸がつららとなって、みな一面に真っ白で、四方の
梢も判別できない。

けれども、文覚は滝つぼに降りて浸る。首のところまで漬かって、慈救の
呪(じくのしゅ。不動明王の陀羅尼の一種)を唱えて所願の回数を満たそうと
したが、二、三日は堪えたが、四、五日にもなると、文覚は堪えることができず
に浮き上がった。

数千丈みなぎり落ちる滝なので、どうして堪えることができようか。
さっと押し流され、刀の刃のように鋭い、それほどまでに角立った岩角の中を浮いたり
沈んだりして、五、六町(一町は約109m)も流れた。

そのときにかわいらしい童子がひとり来て、文覚の手を取って引き上げなさる。
人は不思議に思って、火を焚いてあぶったりしたところ、まだ寿命が尽きる時期
ではない命ではあり、文覚はほどなく蘇生した。

文覚は大きな眼を見開いて、大音声をあげて、「われは、この滝に二十一日間打
たれて、慈救の呪を三十万回唱えるという大願がある。今日はわずか五日めである。
まだ七日にもならないのに何者がここまで運んで来たのか」と言ったので、
聞く人は身の毛がよだって、物を言わなかった。文覚はまた滝つぼに帰り立って、
滝に打たれた。

それから二日めに、八人の童子が来て、文覚の左右の手を取って、引き上げようと
しなさると、さんざんにつかみ合って上がらない。三日めにとうとう亡くなってしまった。

そのとき、滝つぼを穢すまいとしてか、びんづら(髪を真ん中分けして耳の辺り
で束ねて結んだもの)を結った天童が二人、滝の上からお降りになって、じつに暖かく
香しい御手で文覚の頭のてっぺんから手足の爪先、手の平に到るまで、撫で下ろし
になると、文覚は夢心地して蘇生した。

「そもそもいかなる人でおありになるので、このように憐れみなさるのでしょうか」
と問い申し上げると、童子は答えて言うには、「われはこれ、大聖不動明王の御使い
で、金迦羅(こんがら)、制多伽(せいたか)という二童子である。『文覚が無上の
願を発し、勇猛の行を企てた。行って協力せよ』との明王の勅によって来たのである」
とお答えになる。

文覚は声を荒げて、「さて、明王はどこにいらっしゃるのか」。
「兜率天(とそつてん。弥勒の浄土)に」と答えて、二人の童子は雲居はるかに
お上がりになった。

文覚は掌を合わせて、「さては、我が行を、大聖不動明王までもが知って
いらっしゃるとは」といよいよ頼もしく思い、やはり滝つぼに帰り立って、
滝に打たれた。

 その後は、まことにめでたい瑞相どもが多かったので、吹いてくる風も身に
しまず、落ちてくる水も湯のごとし。』





1 件のコメント:

  1. わ・・・遅くにありがと~

    文覚さん、数奇な運命の人だったのね・・

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%A6%9A

    返信削除